安田 道雄 michio yasuda  
井戸茶碗ー見果てぬ夢ー   第1章 ー見果てぬ夢ー

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第1章 見果て夢                                 1999年 59 歳 記

作るべくして作り出したもの



 「井戸茶碗とはなんなのか?」我が作陶人生 早四〇年、胸の奥のしこりとなり、頭から離れない命題であ

りました。そろそろ人生の整理を、ふと思い浮かぶ年になり、私の中の井戸茶碗に決着を付けておか ねば

との想いがいっそう増してきました。これまでの井戸茶碗についての私の考察と蓄積してきた技術論 のよう

なものを纏めることにしました。

 

「楽茶碗に始まり、楽茶碗に終わる」といわれる陶芸ですが、私は「井戸茶碗に始り井戸茶碗に終わ る」と

思っています。この言葉自体が古いタイプの陶芸の世界を表現しているのかもしれません。しかし私 は井

戸茶碗に憧れ三五年程井戸茶碗を作ってきました。時に、喜び、悔し泣き、をして参りました。未だ に正体

の分からない井戸茶碗に、崇敬の思いと憧れを感じつつ、未だ見果てぬ夢、に挑戦する情熱を燃やし 続け

ております。我が作陶人生の骨格というか、原風景になっています。 
 

茶碗の風格、品格、味わい、姿、形、色合い、全てにおいて王者である井戸茶碗、戦国の武将が愛し た茶

碗。武将にふさわしく大きな茶碗。奥深く毅然と立っている茶碗。ここまで完璧な姿、形があるもの だろうか。

 茶道具を離れて、オブジェとして対面しても、独特の造形、量感、質感、肌合いが素晴らしいと言 うのか、

懐かしいというか、引き込まれる魅力を感じます。

この造形物の持つ表情は他の陶器にはないものです。毅然とした表情、おおらかな表情、たっぷりと した

量感、懐かしい色合い、野性味の強さ、堺の茶人たちがお茶を楽しんでいる場面に引き込まれるよう な錯

覚に陥ります。


 対極に楽茶碗があると思うのですが、手びねりで削りだして造形する楽茶碗。まさに造形するイ メージが

あり、意志的で、孤高の雰囲気を漂わせている楽茶碗。

熟練の陶工がろくろの回転を借りて生み出す井戸茶碗。そこには作り出す意志と、生み出される意志 の根

本的な違いがあるように感じます。
 
井戸茶碗には作り手の存在を感じさせない、自然に生まれたというイメージがつきまといます。自然 の、神

の意志のようなものを感じます。

生み出した陶工たちが、歴史の、自然の原風景の一コマのように感じてしまいます。

 
しかし私がこの一文を書き上げる思いは、自然に生み出されたように思える井戸茶碗ではあります が、作

り手の立場に立てば、作るべくして作り出したものだと伝えたいのです。

神の意志で生まれたような井戸茶碗ですが、作り手の意志と夢の具現としての井戸茶碗であることを 伝え

たいのでした。

 
かっての陶工たちは、何を思い、何を目指して、誰のために井戸茶碗を生み出したのだろう?当時、 何の

ための道具だったのだろう?

全てにおいて謎を含んでいる井戸茶碗。あなたはなにものなのか?

 これ程までに私を悩ませ、苦しませ、そして喜ばせてくれる井戸茶碗、あなたは何者なのか?



以下、柳宗悦『茶と美』のうち、「喜左衛門井戸を見 る」より 抜粋。

 「いい茶碗だ─だが何という平凡極まるものだ」、私は即 座にそう 心に叫んだ。平凡というのは「当たり前

なもの」という意味である。「世にも簡単な茶碗」、そういうより仕方がない。どこを捜すもおそら くこれ以上

平易な器 物はない。平々坦々たる姿である。何一つ飾りがあるわけではない。何一つ企みがあるわけで

はない。尋常これに過ぎたものとてはない。凡々たる品物である。

 
それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗で ある。全くの下手物である。典型的な

雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性など誇るどころでは ない。

使う者は無造作 に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだってできた

もの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつ でも買えたもの、それがこの茶碗のも

つありのままな性質である。

 それは平凡極まるものである。土は裏手の山から掘り出し たのであ る。釉は炉からとってきた灰である。

轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山できた品である。仕事は 早い

のである。削りは 荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったので

ある。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいの である。焼き方は乱暴なのである

。引っ付きがあるのである。

だがそんなことにこだわっていないのである。またいられな いのである。安ものである。誰だって それに夢

なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。焼物は下賤な人間のするこ とに

きまっていたのである。ほとんど消費物なので ある。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛

られるのは色の白い米ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅した ら、

誰だってこの光景に出会うのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない 天下の

名器「大名 物」の正体である。

 だ がそれでいいのである。それだからいいのである。それでこそい いのである。そう私は読者にいい直

そう。坦々として波瀾のないもの、企みのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無 心なも

の、奢らないも の、誇らないもの、それが美しくなくして何であろうか。謙るもの、質素なもの、飾らないもの

、それは当然人間の敬愛を受けていいのである。

 それに何にも増して健全である。用途のために、働くため に造られ たのである。それも普段使いにとて

売られる品である。病弱では用に適わない。自ら丈夫な体が必要とされる。そこに見られる健康さは 用か

ら生まれた賜物であ る。平凡な実用こそ、作物に健全な美を保証する。

 「そこには病に罹る機縁がない」と、そういう方が正し い。なぜな ら貧乏人が毎日使う平凡な飯茶碗であ

る。一々凝っては作らない、それ故技巧の病いが入る時間がないのである。それは美を論じつつ作ら れた

品ではない、 それ 故意識の毒に罹る場合がないのである。それは甘い夢が産み出す品ではない、それ故

感傷の遊戯に陥ることがないのである。それは神経の興奮から出てくるので はない。それ故変態に傾く素

因をもたないのである。それは単純な目的のもとにできるのである。それ故華美な世界からは遠のく ので

ある。なぜこの平易な茶碗 がかくも美しいか。それは実に平易たるそのことから生まれてくる必然の結果

なのである。

 非 凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承知しない。そ れは消極的に生まれた美に過ぎないと

いう。美を積極的に作ることこそ吾々の務めであると考える。だが事実は不思議である。いかなる人 為か

らできた茶碗も、 この「井戸」を越え得たものがないではないか。そうしてすべての美しき茶碗は自然に従

順だったもののみである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。 詳しい人智も自然の叡智の前に

はなお愚かだと見える。「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟「自然さ」があるから である。

 自然なものは健康である。美にいろいろあろうとも、健康 に勝る美 はあり得ない。なぜなら健康は常態だ

からである。最も自然な姿だからである。人々はかかる場合を「無事」といい、「無難」といい、 「平安」とい

い、また 「息災」という。禅語にも「至道無難」というが、難なき状態より讃うべきものはない。

そこには波瀾がないからである。静穏の美こそ最後の美である。『臨 済 録』にいう、「無事は是れ貴人、造作することなかれ」と。

 何故「喜左衛門井戸」が美しいか、それは「無事」だから である。 「造作したところがない」からである。孤篷庵禅庵にこ そ、あの「井戸」の茶碗は相応しい。見る者に向かって常にこの一公案を投げるからで ある。

・・・柳 宗悦『茶と美』のうち、「喜左衛門井戸を見る」より



井戸茶碗は作ったのではなく生まれたの だ!との説、「造 作したと ころがない」「それは美を論じつつ作ら

れた品ではない」 この言葉に接したとき、陶芸の世界に入った若い私は強烈な衝撃を受けました。

そうなんだ、平凡な日常の道具にこそ本当の美が宿るそのとおりだと感じました。その柳宗悦の井戸 茶碗

に対する評価が世の定説になりました。・・・若い頃、 「民芸」に夢中になった頃でした。懐かしいですが、
 
しかし井戸茶碗を作りたいと思うようになり、悪戦苦闘していく内にいろいろな思いが目覚めてきた のでし

た。

何も考えずに、その技法もわからずに、ただ形を追っていっても井戸茶碗にはなりませんでした。

●本当に当時の陶工は、無作為だったのか?

●何も考えずに井戸茶碗が作れたのか?

● 本当に朝鮮の飯茶碗だったのか? 

●典型的な雑器だったのか?

● 「轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山できた品である。仕事
は早いのである。削りは荒っぽいのである。」本当にそ うな のか?本当に?

● 「誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。焼物は下

賤な人間のすることにきまっていたのである。」本当なの か?

● そもそも朝鮮で焼かれたのか? 

●なぜ同じ茶碗がないのか、なぜ全て個性があるのか?

 そうして、井戸茶碗への思いは、延々と続き何年か経った 頃、よう やく井戸茶碗の雰囲気が感じられる

茶碗ができたのでした。そのときの感動は忘れ得ぬ思い出です。また、何十回といろいろ試していく うちに

、梅花皮(かいら ぎ)らしきものが出来たときの驚き、感動は忘れがたいものでした。

 

 それからは、様式にそって水引(轆轤成形)をすると井戸 茶碗の雰 囲気になってくれるのがうれしくて、

中で水引 したものです。又後で詳しく述べたいのですが、水引の方法があったのです。やみくもに形 を

追っていっ ても、 雰囲気は出ませんでした。大井戸茶碗の水引の仕方のようなものがあったのでした。もち

ん高台の 削りもそうです。そうしたことを含めて、一定の方向性、様 式のようなものがありました。

様式にそって、水引をすると井戸茶碗の雰囲気になってくれ るのがう れしくて、夢中で水引したものです。

又後で詳しく述べたいのですが、水引の方法があったのです。やみくもに形を追っていっても、雰囲 気は出

ませんでした。 大井戸茶碗の水引の仕方のようなものがあったのでした。もちろん高台の削りもそうです。

そうしたことを含めて、一定の方向性、様式のようなものがありまし た。

 


 
 作り続けている内に、井戸茶碗は、決して無作為で作られたものではないと確信 するようになりました。

はっきりとした方向性と、美意識で作らないと雰囲気がでないことをとことん思い知らされました。 井戸茶碗

の毅然とした立ち居振る舞いは、作り手を拒絶する力を持っています。

緊張感と共に、鋭く向かわないと受け入れてくれません。
 

 定説の無作為という命題は、私には無縁のことのように感じられました。

「喜左衛門」と「筒井筒」の違いは歴然としています。その違いを強く意識しないと井戸茶碗を作る ことはか

ないません。目的意識を持って作り出さないと、とんでもないものになりました。


 






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