安田 道雄 michio yasuda                  高麗茶盌を作りたくて      
井戸茶盌
と高麗茶
ご案内  一筆啓上  作品       井戸茶盌―見果てぬ夢

Last-update.2024.04.20






「井戸茶碗ー見果てぬ夢ー」 井 戸茶碗とはなんなのか?井戸茶碗についての私の考察と蓄積してきた技術論のようなものを纏めてみました。
                                          

山上宗二四百二十年忌追善顕彰茶会で私の大井戸 茶碗が使われました。

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小井戸茶盌


     釘彫伊羅保 茶盌 0 14.8㎝×7.8㎝


斗々 屋茶盌 

 

柿の蔕茶盌
 

蕎麦茶碗



御本茶盌


伊羅保片身替茶盌

 

黄伊羅保茶盌


三島茶盌
 



粉引茶盌
 

刷毛目茶盌
 

彫三島茶盌

 
絵刷毛目茶盌
 

玄悦茶盌
 

茂三茶盌



    第0章 小井戸茶盌

第1章 高麗茶盌を作りたくて
 
 第2章 釘彫伊羅保茶盌  第 3章 斗々屋茶盌  第 4章 柿の蔕茶盌
  
 第 5章 蕎麦茶碗  第 6章 御本茶盌  第 7章 伊羅保片身替茶盌  第8章 黄伊羅保茶碗
 
 第9章 三島茶盌   第10章 粉引茶 盌   第11章 刷毛目茶碗   第 12章 彫三島茶盌
 
 第 13章 絵刷毛目茶盌  第14章  玄悦茶盌   第15章  茂三茶盌  

  安田道雄の高麗茶盌   井戸茶碗ー見果て ぬ夢ー












第 1章 高麗茶盌を作りたくて 

 

  井戸茶盌に取り憑かれて、永い年月彷徨い歩いてきましたが、その道中にも高麗茶 

盌の果てしない荒野が見え隠れしておりました。

一 陶工の仕事として、どれぐらいの幅を、どれぐらいの深さを持つべきなのか、少なく

とも井戸茶盌だけでは成り立たないことだけは感じておりました。

 

  「安田道雄 高麗茶盌展」を企画、想定した時に、展示作品の全体像が自ずと脳裏を

かすめました。

大 井戸茶盌、井戸茶盌、小井戸茶盌、青井戸茶盌、釘彫伊羅保茶盌、黄伊羅保茶盌、伊

羅保片身替茶盌、
斗々 屋茶盌、柿の蔕茶盌、蕎麦茶盌、御本茶盌、三島茶盌、粉引茶

盌、刷毛目茶盌、

こ れぐらいを展示すれば形になる、恥をかかないかなと考えました。

 

  高麗茶盌は途方もなく種類が多く、その方向性は多岐にわたり、一陶工の仕事の範囲

をはるかに超えていると思っております。

私 が出来得る範囲は自ずと限界があり、私自身の好みや、技術、技倆の範囲の中で挑戦

することになりました。それが、前述の茶盌たちです。

高麗茶盌を作る、挑戦 するとは一陶工にとってどういうことなのか。問い続けており

ます。

高 麗茶盌を作るということは、広い意味で「写し」をすることだろうと考えています。

 

  絵画の世界にも「模写」という行為があります。古今東西の名作を写す作業の中で、

自分の技倆を磨く、自分の個性を再発見するという、その画家の成長過程の一里塚のよ

うに理解しております。

決 して「模写」されたその作が、自己完成の目的物でないことは自明のこととして定着

しています。

つ まり作品として発表されることはあり得ないということです。

 

  方や陶芸の世界では、「写し」の作を作品として発表することが当たり前のようにな

っております。

レ プリカのようにどれだけ本歌に近づいているかが、評価の規準にすらなっているよう

です。

  お茶の世界では、本歌は高価過ぎて手に負えない、現代の陶工の「写し」の作で楽し

もうということがまことしやかに語られております。

そ ういう意味での必要性、存在価値は有るのでしょうが、甚だ、寂しい限りです。

 

  ある高麗茶盌の名前を冠して発表するわけですが、その高麗茶盌の様式,価値観を通

して陶工の個性の発露としての作品を発表するということが、あり得る本来の姿であろ

うと考えております。

古今東西の名作の様式 に基づくことは、広い意味で「写し」になるだろうと思います

し かし名作の価値観を学ぶことは「写し」にはならないだろうと思っております。その

名作の魅力(価値観)を抽象して、その魅力を自作の中心に据える行為がまさしく創作

するという行為であると考えます。

 

  例えば柿の蔕茶盌を作るとします。

ま ず土作りです。陶工の数だけの種類になるでしょう。この土を選ぶこと、この土を作

り出すことが陶工の独自性、個性の発露の第一歩になるでしょう。

 

  そして陶工の数だけの轆轤成形の姿形が出来上がります。この姿形が、轆轤の妙味が

個性の中心になることでしょう。

 

  次に釉薬です。これも独自性が出ます。釉薬の掛け方も独自性があるでしょう。一工

夫したり、薄く、厚くで、この選択も結果につながります。

 

  最後に焼きに入ります。土が要求する焼き方、釉薬の必然としての焼き、酸化、中性

還元、そして窯の有り様でもそれぞれの独自性が生まれます。

  結果として柿の蔕茶盌が作り出されるのですが、柿の蔕茶盌としての様式、雰囲気を

備えていないと、恥ずかしくてその名前は使えないでしょう。

そ ういう意味で、広い意味での「写し」だと思っております。

 

  誰が観ても柿の蔕茶盌の雰囲気だと思えることを前提として、色合い、焼き肌、大き

さ、手取り(重さ)姿形、そして轆轤の妙味がどれだけ発揮されているか、その世界で

わかる方には、「ああ、あの陶工の作だな、作りだな」と納得される。

そのような柿の蔕茶盌 が陶工の個性の発露としての作品になります。

 

  更に、その柿の蔕茶盌が「魅力ある茶盌」であるのかどうか、厳しい目に晒されるの

です。

 

 個 性的で、「魅力ある茶盌」に仕上がるには、土作りが良かった。轆轤がうまくいっ

た。釉薬掛けも納得。焼きが最高だった。それぞれの過程での「良し」という幸運が重

なり続ける稀有な偶然性を思わないわけにいかない。

そ んな人智を超えた幸運がもたらす「魅力ある茶盌」という僥倖が陶工の個性の発露と

しての輝かしい作品になるのだと考えております。

 



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