井戸茶碗ー 見果てぬ夢ー  第3章 井戸茶碗への技術論



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第3章 井戸茶碗への技術論

灰釉(透明釉)

 現代の井戸茶碗は長石釉のあまい焼きのものが主流になっています。梅花皮(かいら ぎ)も長石釉があまく焼

けて、縮緬皺のように成った感じのものが多いように思います。また、器全体に梅花皮(かいらぎ)が出てしまっ

ているのがあります。梅花皮(かいらぎ)の出る釉なのでしょう。


本歌の井戸茶碗の多くはそうではなく、 高台周り以外は、つまりボディは透明に焼かれた灰釉のようです。梅花皮

(かいらぎ)もいろいろですが、灰釉(透明釉)が削られた高台脇に厚く掛かり熔ける時に縮れたものですが、喜

左衛門井戸、筒井筒井戸、有楽井戸のように玉になっているのが調子の良さを感じさせます。




「有楽」

 枇杷釉というのがあるのではなく、どちら かというと薄く掛かった灰釉(透明釉)が土と相まって色を出している

のです。けっこういろんな色があります。枇杷色(朽葉色)を中心にして、青ぽいの、白ぽいのから、青色ぽいの、

黄色ぽいの、赤ぽいのと・・土の個性と(土の鉄分他の量のぐあい、荒さ等々)焼きの調子とかで発色しているの

です。


プロの轆轤士

 写真集を見ていると、ほとんどの茶碗が高 台の側面は梅花皮(かいらぎ)になっていません。(細川井戸は例外

)削った部分が土が荒けて釉が厚く掛かり、梅花皮(かいらぎ)になる。その理屈から言うとそこは削っていないこ

とになります。高台の側面を削っていないということは、水引のままという事になります。水引で高台の径を出して

いることになります。相当絞り込んでいます。水引時、6センチ強ぐらいですか?口径が17.5センチぐらい、高さが

9,5センチぐらいですからかなり開いた感じの大きな茶碗です。


 ですから削るとき、良く言われているよう に、本当に高台脇だけを削りだしているのです。実際試してみると、ほ

とんど形になりませんでした。どうしても高台を削らないと大きすぎてバランスがとれませんでした。感覚より余程

絞り込んだ高台で水引したことになります。経験を積んでいく内にその水引の感覚はつかめてきたように思いま

すが・・


 まだまだ思うようには出来ないのが本当の ところです。本当にその事が正しければ、当時の陶工は神がかりな

技りょうの持ち主ということに成ります。思えば私の経験の中に、真の職人の仕事ぶりを隣で拝見した思い出が

あります。私もプロの陶工を自負していますが、とても及びもつかない、想像を超えた仕事ぶりでした。真の職人

の仕事のすごさは感動の連続でした。私には無理だと感じました。今でもその気持ちは変わりません。当時の陶

工の神がかりということも納得できます。


高台の削り

 ある高名な作家が話しておられましたが、 通常に湿台(しった)に載せて削りをすると口が乾いて縮んで、高台

周りは乾いていないから形のバランスが狂っているのでどうしても形がとれない。だから当時の陶工は水引で形が

出来たときにその状態で高台脇を削りだしたのではないかと。そしてへらでえぐるように切り離したので、兜巾が

出来たのではと。


 しかしこの説には相当無理があると思いました。削る時期のバランスが崩れているの は井戸茶碗に限ったこと

でなく、この仕事をしている者の宿命というか当然のこととして受け止めています。何万、何十万と削っている中

でそのバランスの取り方は陶工であるなら充分に身に付いています。高台周りが乾きが遅いので、最終的には

多く縮みます。ですから気持ち大きめに高台を削っているのは無意識にやっているのです。そうして全ての陶工

は失敗を重ねながら、バランス感覚を育てているのでした。それに水引のまま削り、ヘラで切り離すというのは、

想像を超えています。



井戸茶碗の水引(轆轤成形)

二段引き


 井戸茶碗の形の基本は碗なりですが、井戸茶碗を水引(轆轤成形)するとき、普通に水引すると井戸茶碗の雰

囲気になりません。上半身と下半身で雰囲気を変える必要があります。はっきりと違いがあるのです。下から連

続的に引いていくと井戸茶碗の雰囲気になりません。下半身にはロクロ筋がはっきりとありますが、上半身には

筋が無く厚めに肉を溜めて口にはもう一段しっかり溜めています。下半身は限界に近く土を伸ばします。そうする

ことで、腰が軽くなり見た目よりも相当軽い感じが出ます。実際に扱われた方の感想に、見た感じよりも相当軽い

!と驚かれておられますが、腰を薄くしているためだと思います。

 水引きの時、下半身(腰)が薄いとフワフワと不安定になるのですが、上半身が肉厚だと信じられないぐらいし

っかりしています。腰を薄くして、腰から上は肉を溜め、口は玉縁にする。水気、ドベを極力排除して、左手の親

指の腹で筋を殺し、しっかりした状態を作る。・・・

その技法は、毅然とした形、凛とした張りの造形になる可能性を秘めています。私はこの技法を二段引きと勝手

に言っています。


 水気、ドベが多いとドロンとした、延びきっただらしない造形になります。もちろんそれらがないと水引きはでき

ませんが、極力抑えることが肝要だと思いました。

水気、ドベが少ないと、素早く水引きはできません。丁寧に、ゆっくりと仕上げねばならなくなります。

そのことが、毅然とした、しっかりした形を作ります。


 先に書きましたが、プロの轆轤士は堅い土を求めます。数を作るのを宿命づけられている彼らにとって、軟ら

かい土では仕事がはかどりません。また、しっかりした形を作るには堅い土が必要です。

柔らかい雰囲気を出すには軟らかい土が求められますが、井戸茶碗の毅然とした造形、凛とした張りを求める

には堅い土が必要です。



箆を使う

 下半身は細い高台から広がっていく方向、 上半身のところで上に伸びる方向を意識して水引します。上と下で

方向が微妙に違うところがポイントです。そしてへら(こて)を使わずに茶碗を引く方法がありますが、井戸茶碗は

箆を使うことで、見込みの雰囲気がおおらかで、毅然とした雰囲気になります。また内と外のバランスが絶妙にな

ります。見込みにあてた箆を微妙に動かすことで、見込みの箆目を調子よく付けるのです。


 ここまで来ると、自ずと井戸茶碗の雰囲気 が出てきます。焼き上がり15センチから15.8センチぐらいの口径で、

8センチから9センチぐらいの高さで大井戸茶碗ができるのです。



井戸茶碗の削り

 高台の削りは、相当柔らかい時期に削ります。夏場でしたら朝早く水引したものを夕 方に削ることもあります。  
畳付きは、本当に皮一枚削るだけです。 高台の側面は水引のまま残します。 


そして高台脇を鋭角に、一気に削ります。削るというよりは、えぐるといったイメージです。

そのえぐったところが、梅花皮(かいらぎ)になります。半回転、下にずらします。 

カンナはいろいろですが、それぞれの作り手の工夫のしどころです。


 朝鮮の削りは、時計とは反対回りで削っています。その点は私は時計回 りです。本質ではないように思います

ので・・自分の永年の慣れ親しんだ方法で削っています。

 高台脇は、喜左衛門井戸と筒井筒井戸とがそれぞれの典型になっています。喜左衛門井戸の高台脇は他より

も広く、傾斜が緩やかです。 筒井筒井戸の高台脇は激しく、深く、えぐられているように感じます。

喜左衛門井戸の柔らかさ、筒井筒井戸の厳しさの雰囲気をそれぞれ醸し出しています。


 ある説に、見込みの奥深い茶溜まりは、軟らかいときに湿台(削り台) に被せて力を掛けるのでその湿台(削り

台)の部分がめりこんでできる。という話しがありますが、それでは形は崩れてしまいます。

私は水引の折りに篦を使って作っています。あの見込みの雰囲気は偶然に出来たものとは思えません。水引で

その雰囲気を作り出すものだと思っております。



竹の節高台


 井戸茶碗の高台は竹の節高台になっていますが、カンナとかへらの当てる角度で高台側面を決めるときに節

を作ります。

竹の節も一筋だけでなく部分的に二筋ある竹の節高台が魅力的です。へらを動かして連続節を作るのです。

意識して削り出すのではなく、脇を削り出す結果として出来るのです。

強く竹の節高台を出すと品のないものになります。程良い状態で削りだすのが大切です。


 どうして竹の節高台なのでしょう。その由来を考えますと、釉掛けの時に高台を持って浸し掛けをするのですが

、その持つ時に引っかかりができるように考えられたのだろうと想像できます。


実際に釉掛けをしますと、引っかかりがあると大変助かります。滑って、よく落としますから・・

決して、美的な感覚のデザインだとは考えにくいですね。

仕事の段取りの、必要性から生まれたものでしょう。しかしそれにしても、素晴らしいデザインだと感嘆する事しき

りです。


 カンナは鉄製ですが、松を削ってへらに作ったものもあります。脇を削るカーブはいろいろあるのですが、その

カーブを作りやすいのが利点です。

カンナとは違う持ち方をします。また、先に、削るのではなくえぐるようにと書きましたがこのへらはえぐるのに向

いています。
 



梅花皮(かいらぎ)

 梅花皮(かいらぎ)のことですが、私が初めてそれらしくできたのは京 都の五条坂の登り窯を借りて(京都特有

の共同窯でした)独学している時期でした。

中性から還元で焼く三之間の端(入り口)の三立を借りていたのですが、火炎の通り道のさま穴から下の根のと

ころに窯詰めしたときに思いがけず焼き上がりました。条件が合致したのでしょう。その後いろいろと試行錯誤し

て今日に至っております。


 釉薬、釉掛けの方法、状態、焼きの条件、何よりも土の種類、そうした条件が合致したときに調子の良い梅花

皮(かいらぎ)が生まれます。


 思えば、井戸茶碗とは梅花皮(かいらぎ)の不思議な魅力が象徴的な茶碗です。梅花皮(かいらぎ)の出て いな

い井戸茶碗は実に間の抜けた姿です。梅花皮(かいらぎ)が出ている高台周りがあるから、ボディの存在が際だ

つのです。

梅花皮(かいらぎ)を出すことに成功することが、井戸茶碗作成の最大ポイントだといえます。


 窯出しの時、胸が苦しくなります。ドキドキします。期待と不安が交差して息づまる思いです。失敗が多いのです

。梅花皮(かいらぎ)の微妙な調子を求めることは至難の業です。

ある時は、梅花皮(かいらぎ)が出過ぎて一窯ダメでした。釉がはがれすぎて見るも無惨でした。

梅花皮(かいらぎ)がでることは、釉が縮れるということです。失敗ということです。その失敗を意匠にするのです

から、無謀なことです。大変な冒険です。

ですから、その失敗の度合いが非常に大切なのです。失敗が見所になるということは危険な賭になります。


また、ある時は、梅花皮(かいらぎ)が貧弱でさっぱり味のない一窯も有りました。出過ぎると、下品になりますし、

少ないと味気ないものになります。調子のよい梅花皮(かいらぎ)の領域は非常に狭い幅だといえます。

そうして、一時、落ち込むのですが、失敗の理由を探しては、もう一度試みました。そのことの繰り返しでした。


 大抵が釉掛けの問題でした。薄く掛かったり、厚かったり、些細な一つのことを手抜きすると大変なしっぺ返し

に合います。慣れてくるとついつい忘れるものです。

まあ、いいだろうと思い、期待して窯詰めすると失敗ですね。本当にデリケートで、厳密な段取りが求められます。


 そして土が強烈に影響を与えます。土のざらつきが少ないと出にくくなりますし、ざらつきが強くなると出過ぎて

下品になります。



梅花皮(かいらぎ)をコントロールする


 梅花皮(かいらぎ)が出ることを前提として、次に、いかに調子の良い梅花皮(かいらぎ)を作り出すのかが課題

になります。

 梅花皮(かいらぎ)の出方を整理しますとつぎになります。

一、    土の種類

二、    釉掛けの状態

三、    焼成温度


 土が荒く、ざらついていると梅花皮(かいらぎ)が出やすくなることは前に書きましたが、度が過ぎると失敗に繋

がります。窯出しの時、一見、激しい梅花皮(かいらぎ)が出ていて良しと思っても、よく見ると出過ぎていてものに

なっていないことが度々です。時には、釉がはがれ落ちているときもありました。

土を細かくすると、出なかったり、味気ない調子のものになります。下物にはなりませんがものにもなりません。

調子の良い梅花皮(かいらぎ)を出すには、まず第一に程良い土を作り出さねば成りません。


次に、釉掛けのことですが、土は一度決めればいいのですが、釉掛けはそ の都度神経を使います。

一番重要な作業だと思います。釉薬の厚みは梅花皮(かいらぎ)の大きさを決定づけます。厚すぎれば 剥がれ

の原因になります。薄ければ梅花皮(かいらぎ)は出ません。本当に、微妙な作業です。
 

 ある方が、濃度計を使えば良いではないかとアドバイスくださいましたが、濃度計を使っているという話を聞い

たことがありません。例えば、同じ濃度であっても作品の厚みで変わりますし、釉薬に浸かっている一秒、二秒の

違いで変わりますので、現実的でないのでしょう。

 とにかく、良い結果が出たときの記憶を頼りに、ドキドキしながら作業しています。不思議と結果を夢想しながら

作業している自分がいます。その思いは裏切られることが多いのが現実です。
 
作業をするとき、どうしても期待が先行してしまいます。その期待に引っ張られて以前と違うことをすると、必ずと

言っていいほど期待外れになりました。いや、失敗に繋がりました。


 窯で焼くということは、化学変化を起こすことだと肝に銘じねばなりま せん。期待とか、不安とか、人間の情が入

り込む余地はないのでした。


 良い結果のデータを積み重ねて、データ通りに作業することに専念しな ければなりません。

わたしは、作業するとき、以前より少しでも良い物と願い何か工夫をしてしまいます。その思いが空回りして、失

敗に繋がることが度々ありました。わたしの悪いところであり、良いところでもあると反省しきりです。

焼成についても、良い結果のデータの積み重ねを大切にするしか在りません。微妙な温度の違いで結果が変わ

るのは自明のことです。



井戸茶碗の土

 土のことですが、何よりも朝鮮の井戸茶碗を作った土を使うのが一番で す。それは本当に自明のことです。が

、しかしどれだけの作り手が夢かなうでしょう?また、残念ながらその土の正体も分かっていません。私たちの出

来ることは、経験の積み重ねで、雰囲気の近い土を探すことしか出来ません。

それでよいのだと思います。井戸の土が有れば結局、恵まれた、特権的な作り手だけが夢を叶えることでしょう。
 
現実は、それぞれの作り手の探求心と、努力で雰囲気の近い土を探すのです。いや、作り出すのです。

土は、そこにある土を探すというイメージと、ブレンドなどして作り出すというイメージがあります。

 梅花皮(かいらぎ)の出来る土は、ざらついた、珪砂混じりの土です。唐津系の山土が近いです。

ざらついた土というのは、削ったときに縮緬皺が出来る土です。

 鉄分はいわゆる半赤(赤土と白土を同量混ぜ合わした土) あたりが基準になります。 赤の割合で焼き色が

変わります。いろいろ楽しめます。


 私の場合は、京都で普通に使われている土と地元で採取した土とでブレンドしています。

 楽土(京都の市販品)         五〇
 赤合わせ(京都の市販品)      四〇
 地元赤土 (蛙目系)          一〇


 楽土(京都の市販品)         四〇
 赤合わせ(京都の市販品)      三〇
 地元赤土                 一〇
 童仙房 (蛙目系)           二〇 

 楽土(京都の市販品)         三〇
 赤合わせ(京都の市販品)      三〇
 地元赤土                 一〇
 童仙房 (蛙目系)           二〇

 信楽(京都の市販品、白土)    五〇
 赤合わせ(京都の市販品)     三〇
 童仙房 (蛙目系)          二〇
信楽(京都の市販品、白土)     七〇
赤合わせ(京都の市販品)      一〇
童仙房 (蛙目系)           二〇          


信楽(京都の市販品、白土)     三〇
赤合わせ(京都の市販品)      五〇
童仙房 (蛙目系)           二〇


 このあたりの範囲を中心にして、割合をいろいろ変えることで調子も変わります

喜左衛門井戸系は赤土を少ない目にしています。

有楽井戸系は赤土が多い目です。

楽土(京都の市販品)はざらつきを求めるためと、軽さへの効果もあります。

童仙房は蛙目系で、石粒を求めます。

赤土の量で、色合いが微妙に変わります。それが楽しみの一つになりました。

地土は、個性的な土が多く、個性的な井戸茶碗を求めるには必要な土です。

しかし、個性的な井戸茶碗は、ともすると、魅力のないものになる危険性を秘めています。使いこなすことが大切

になります。


井戸茶碗の釉薬


 井戸茶碗の釉薬とは自ずと梅花皮(かいらぎ)の出る釉薬ということになります。しかし梅花皮(かいらぎ)が出

れば何でもよいということにはなりません。

基本的に、透明釉であることがポイントです。

灰釉か石灰釉かは評価の分かれるところだと思います。灰釉は土灰釉で間違いないでしょう

石灰釉は貝殻灰を使ったか、土石の石灰石を使ったか微妙なところです。


 いろいろ書いてきましたが、梅花皮(かいらぎ)の出る状況は、土、釉掛け、焼き、それぞれのポイントの合致が

必要です。調子の良い梅花皮(かいらぎ)をだすには、釉薬だけの単独の働きではありません。


 ボディは透明に焼かれ、高台周りに梅花皮(かいらぎ)が出ている状態が必要です。釉薬が決まったとして、そ

れからが、調子の良い井戸茶碗を作るための挑戦になります。

土を選んでどの様な質感にするのか、作り手の表現になります。釉掛けの状態によって、梅花皮(かいらぎ)の調

子を作り出す、その事が作り手の表現になります。焼きの有り様は、大きく井戸茶碗の調子を決定づけます。こ

れも作り手の表現に違いありません。
 
そうして井戸茶碗の調子が決定していくのだと考えます。


 例えば、喜左衛門井戸風を想定するなら、
土は
 楽土(京都の市販品)       四〇
 赤合わせ(京都の市販品)    二〇
 地元赤土               一〇
 童仙房 (蛙目系)         二〇

釉掛けは

少し薄く掛ける。釉垂れは少ない目に。


焼きは

気持ち酸化気味の中性。温度は高めで、釉薬はしっかり溶かす。


 有楽井戸茶碗の場合
土は
 楽土(京都の市販品)       四〇
 赤合わせ(京都の市販品)    四〇
 地元赤土               一〇
 童仙房 (蛙目系)         一〇


釉掛けは

少し厚く掛ける。釉垂れははっきりと付ける。

焼きは

気持ち還元気味の中性、温度は低めで、少し甘い目で焼く。

 焼きは、中性炎から酸化炎の幅で、中性炎から還元炎の幅で、これもいろいろ楽しめ ます。つまり相当幅のあ

る領域で勝負するわけです。その中で自分の世界を探し出すのです。その選択がその作り手の表現になります

薬の調合

 長石            六五                             
 木灰            二〇
 カオリン           五
 珪石            一〇
 
 長石            七〇
 木灰            一五
 カオリン           五
 珪石            一〇

 長石            八〇
 木灰            一〇
 カオリン           五
 珪石               五
 
 

 長石          六五
 土 灰         二〇
 カオリン         五
 珪石          一〇

 長石          七〇
 土 灰         一五
 カオリン         五
 珪石          一〇

 長石            八〇
 土 灰           一〇
 カオリン           五
 珪石             五




井戸茶碗の釉掛け


 釉掛けですが、焼くこと以上に重要です。焼きの善し悪しは釉掛けで決まると言っても過言ではありません。釉

の厚み、掛け方による釉垂れの雰囲気で茶碗の調子が決まります。釉を厚くすれば貫入が大きくなります。梅花

皮(かいらぎ)が出来やすくなります。しかし壊れやすくなる危険も増加します。(生掛けですから)

釉薬の生掛けとは、化粧掛けの時と違い完全に乾いた状態、素焼き前の状態で掛けます。

 有楽井戸は釉の厚い方向です。釉垂れもはっきりしています。喜左衛門井戸は釉の薄い方向です。


 前後しますが、釉掛けの基本は生掛けです。疵が出来る原因になります。窯の80パーセントに疵が出たことが

何度もあります。窯出しが怖くなりノイローゼになりました。

 素焼きでは梅花皮(かいらぎ)は出ません。昨今、梅花皮(かいらぎ)促進剤というものを釉に混入すると素焼き

でも梅花皮(かいらぎ)が出来ます。しかし、井戸茶碗ではありません。井戸茶碗の梅花皮(かいらぎ)ではあり得

ないのです。辺り構わず出来ます。 井戸茶碗の品性、品格、雰囲気にほど遠いものです。


 生掛けによって生まれる雰囲気が井戸茶碗なのです。削った高台脇に品 良く出来る梅花皮(かいらぎ)が井戸

茶碗なのです。

疵覚悟の危うい冒険が井戸茶碗を生み出すのだといえます。疵が出来たり、梅花皮(かいらぎ)が出過ぎたり、

もの足らなかったりで・・ 調子の良い井戸茶碗はなかなか作れません。本当に難しいです。だからこそ、良い井

戸茶碗が出来たときの歓びは何にも代え難いものです。


 それにしてもこのような一定の方向性を持った茶碗がどの様にして生ま れたのか、本当に不思議でなりません

。結果として梅花皮(かいらぎ)が出たのだろうけど、それをまるで意匠の最大のポイントにしているかのようにほ

とんどが魅力ある高台周りになっています。


 確かに、ある時期からその梅花皮(かいらぎ)をねらったのではない か?と思えるほどです。

どの様な実用性があって、あのような姿、形になったのだろう?水引(轆轤成形)をしていると、自然に水引(轆轤

成形)していてはあの姿、形は生まれない。その様に意識して作らないと決して、井戸茶碗になり得ない。このこ

とは私の永い経験から来る確信です。



焼成について


 焼きは、中性炎を中心に中性炎から酸化炎の幅で、中性炎から還元炎の幅で、色合いが変わります。これも

いろいろ楽しめます。つまり相当幅のある領域で勝負するわけです。その中で自分の世界を探し出すのです。そ

の選択がその作り手のオリジナリティー、表現になるのです。


中性炎で焼成しますと「御本」と我々が申していますピンクの斑点がでる窯変ができやすいのですが、井戸茶碗

に関する限り御本がでると調子がよいとはいえません。

しかし御本がでない酸化、還元の焼成では味がでません。つまらないものになります。

あくまで中性炎で勝負するのですが、御本を出さずに中性炎の良さを求めるのです。その微妙な焼きぐあいが大

切になります。 
 

 喜左衛門井戸は、中性から酸化に傾いたあたりだと思います。筒井筒井戸、特に有楽井戸は中性から還元に

傾いたあたりです。微妙に青味がかっています。枇杷色、黄味、肌色は中性から酸化気味です。その反対で、青

味、灰色は中性から還元の方向です。

喜左衛門井戸は、朽ち葉色、肌色、ある人は黄味がかっていると言われます。

有楽井戸は、青いというよりもねずみ色に近いと思いました。


 どちらにしても、焼き肌の調子の良さが決め手です。釉薬が融けすぎず、甘くもなく程良い融けぐあいで、釉垂

れが微妙に乳濁しているあたりです。所謂あぶらげ肌です。私は、釉掛けで釉が濃くかかった場合、融けにくい

ので少し強めに焼きます。薄くかかった場合はその逆です。

 釉の融け気味を狙うのか、甘い目を狙うのか、黄味、肌色を狙うのか、青味を狙うのかで焼き方も微妙に変わ

ります。

釉の薄さ、濃さのどちらを狙うのかで茶碗の雰囲気、表情も変わります。
 



 登り窯と電気窯


 私は、自分の作陶経験の出発期に登り窯を経験するという恵まれた状況にありました。自前の窯を持つことが

出来ないときに、京都の五条坂の共同窯を仲間と一緒に借りることが出来たのです。

 その組合の登り窯は、年十四回立ち上がりました。年十四回というと、大変な回数で月一回より二回も多く、窯

詰めの段取りが大変で、無我夢中でした。


 そのおかげで、勉強になったと思います。私の借りていた場所間は、磁器、土ものの還元で、青磁、辰砂他を

焼いていました。

四の間は、唯一酸化の焼きでした。京都の仁清もの、乾山もの、柚黒を焼いておられました。


 いま思えば陶器作りの学校でした。様々の方々が参加しておられて、窯焚きを協力して経営していました。窯

詰め、窯焚き、窯出し、その時々に先輩方々からご教示をいただき勉強を積み重ねていきました。

いろいろな技法、焼きを身近に拝見させていただき、説明もしていただきました。その意味で、広範囲の基礎的

な、実践的な勉強が出来ました。


 二十二歳頃から三十一歳頃まで、九年間ほどお世話になりました。無我夢中の青春時代でした。車で三,四十

分ほど離れた実家で作陶し、釉掛けをしたものを車で運ぶ、今思えば曲芸のようなことを楽しみながら頑張って

きました。

この九年間は、私の誇りでもあり、基礎学力でもあり、自信につながりました。


 青磁で有名な諏訪蘇山氏、油滴天目で一家を成した鎌田幸二氏、河井寛次郎の流れを受けられた河井透氏

、河井久氏、柚黒を得意とされた丹羽好一氏、三代目の京食器の俊英澤村陶哉氏、京都の料理界で有名な中

村東洸氏、茶道具、特に茶入で一家を成した笹田仁史氏、工芸会で活躍されている清水正氏、氷裂青磁の川崎

与吉氏、三島を得意とされた浅見与し造氏、たくさんの有能な方々が活躍されていました。


 みなさんにはいろんな意味で、本当にお世話になりました。有り難うご ざいました。

この場を借りて、改めてお礼申し上げます。


 私は、粉引とか伊羅保とか焼いていましたが、ある頃から井戸茶碗に挑戦するようになりました。先にも書きま

したが、さま穴の根床の裏に窯詰めしたときに梅花皮(かいらぎ)が焼けたのでした。

そのときの感動は今もハッキリと覚えています。大変興奮しました。

私の井戸茶碗造りの記念すべき第一歩でした。


 その後、登り窯はある事情により火入れは中止になりました。私は、新たに電気窯を敷設し今日に至っており

ます。当初は、登り窯で焼いていたものを電気窯で焼くことに、抵抗や、難しさがありましたが、回を重ねるごとに

定着していきました。


 登り窯と電気窯、両極に位置すると思われている窯ですが、どのように考えたらよいのでしょうか。世間一般に

「焼き物はやっぱり登り窯でしょう。」という観念は根強いものがありますが、本当にそうだろうかという疑問を永

年温めてきました。


 科学的に検証する根気を私は持ち合わせていません。登り窯時代の私は、その商業的な優位さに甘んじてい

たように思います。確かにある種の誇りや、自信のようなものも感じていました。

しかし、それはハッキリとした科学的な、思想的な根拠に裏付けされたものでもなかったのです。何となく格好良く

て、人に比べ大変な仕事をしていると、悲壮感のようなものに酔っていたようにも思えます。


 窯に薪を放り投げている写真を新聞社が撮り、テレビ局が放映しまし た。鼻高々でしたでしょう。

恥ずかしい限りです。そうしたなかでも、心の隅で、焼いていること自体は、電気窯でも、ガス窯でも、内容はさほ

ど変わらないなーと感じていました。

 実際、ものを並べて比べてみると、違いを見つけるのは大変なことです。灰被りのような、焼き締めのようなも

のは、確かに違いはありますが、釉薬もの、高麗もののようなものには違いを見つけるのは困難でした。


電気窯でも毎回、微妙な違いはあるし、登り窯と電気窯との違いもその程 度だと思われました。


 志野で人間国宝の鈴木蔵氏は、ガス窯を称揚しておられます。活躍されているたくさんの陶芸家のほとんどの

方が、ガス窯や、電気窯で焼いておられます。

窯にはそれぞれの特徴や、良さがあるのであって、優劣を付ける意味がないように思います。

それぞれの窯で、最高を目指すことが肝要だと思っています。


 さて、繰り返しますが、井戸茶碗の調子を決定づける要素として、釉掛 けの比重は大変重たいといえます。梅

花皮(かいらぎ)の調子、焼き肌の雰囲気を左右します。

 また、疵を生み出す原因にもなります。井戸茶碗は生掛けをするのですが、高台周りに微妙な線疵が出来や

すいものです。


 疵が出来る状況になると、一窯ほとんどに疵がでます。大失敗です。本当に窯出しが怖くなります。

よくあるのが、疵ではないのですが調子の悪い状態です。釉掛けで厚く掛けすぎると、梅花皮(かいらぎ)が出す

ぎて品のないものになります。薄く掛けすぎると、味のないつまらないものになります。

振り返れば、その様な失敗の繰り返しのような思いが残ります。

 



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