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井戸茶碗ー見果てぬ夢ー  第2章 井戸茶碗を想像する




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第2章
 井戸茶碗を想像する

 井戸茶碗は高麗茶碗(朝鮮茶碗)の一種です。古くから茶人に最も珍重された茶碗で、「一井戸、二楽、三

唐津」などと言われ賞翫されました。

井戸茶碗は名品が多く、数量も種類も他の茶碗の数倍あります。朝鮮で最も広く民間に普及していただろう

と思われます。(しかし朝鮮にはほとんど伝来していない)

高麗茶碗は李朝時代に製作されていますが、この井戸茶碗は高麗時代に製作されたと見られています。高

麗茶碗の中でも、最も古く、大きく、立派な姿、形です。

 東山時代、唐物茶入(中国製)と共に高麗茶碗が招来され、珠光青磁に次いで井戸茶碗が第一の茶碗とし

てもてはやされました。
 
井戸茶碗には、大井戸、小井戸、青井戸、小貫入、井戸脇とあります。



堺の茶人


 茶の湯の世界では、大井戸茶碗は大名物としての扱いを受けています。茶碗の最高位に位置づけられて

います。その文化財は、喜左衛門井戸は国宝に指定され、筒井筒井戸は重文に位置づけされています。

 その結果をもたらしたものは、安土、桃山時代の堺の茶人たちが茶碗に見立てた結果でした。戦国時代の

武将が主人公であった文化背景の下、武将が好む茶碗であっただろうと想像できます。

 その見立てた茶碗とは、どの様なものだったのか。今私たちが見ている井戸茶碗と同じものだったのか?

現在の井戸茶碗は四,五百年の悠久の時を経た古色の付いた味わい深い茶碗である。涙が出るほど魅力

ある茶碗である。

堺の茶人たちが、焼き上がって時間の経ていない新品の茶碗を見ていたとしたら・・

作り手の私にはハッキリ想像できるのですが、あの喜左衛門井戸が新品であったらその魅力は半分以下で

あろうと。ただただ、大きいだけのグロテスクな器であろうと・・

色も、焼き肌も魅力のない単なる透明釉の器であろうと・・

梅花皮(かいらぎ)も出来損ないに見えるだろうと・・

 その新品のものを茶碗として見立てたのであれば、使っていく内に大化けするであろうと想像しつつ見立て

たとすれば、それは驚嘆すべき真の目利きであったのだと思います。

実のところ、当時の真実は分かりません。しかし私たちよりは四,五百年新しいものを見ていただろう事は疑

いのない事実です。

 想像するのですが、五年、一〇年使われていて、相当古色を帯びていたのではないか?

現在の私たちが見ている井戸茶碗の雰囲気はあったのではないか?

堺の茶人たちと私たちの美意識は共通したものがあるのではないのか?つまり、ほぼ同じものを見ていて、

同じように感動していたと思えば価値観の共有を感じます。

そうであれば私としては大変嬉しいのですが・・


 しかし歴史的な真実はどうであったのか? しっかりした考証が必要です。四,五百年前の当時、初めて茶

会で使われたことは史実として存在しています。その茶碗が同年代に作られたものなのか、相当に時間を経

ていたのかは分かりません。使われたという事実だけが分かっているのです。



双子の井戸茶碗

 写真集を見ていると、いろいろな井戸茶碗があります。形、色、大きさ、焼きの調子、梅花皮(かいらぎ)の

具合、等々あまりに違いがはっきりしています。つまり個性があります。それでも井戸茶碗としての一定の方

向がありますし、様式美というものがあります。一定の約束というか、水引の癖というかそのよ

うにして作られたものだと感じます。


今、私が作ることを想定すると、例えば喜左衛門井戸を目指して作れば100でも、200でも喜左衛門井戸のよ

うな形の作になります。また、焼きの雰囲気にしても、似たような調子になります。伝来品になぜ同じ雰囲気

の、兄弟というか、双子の井戸茶碗がないのか?不思議です。一人の陶工がどれとどれを作ったのか非常

に興味がわきます。例えば喜左衛門井戸と、細川井戸を同じ陶工が作ったのか?作れるのか? 同じ時期

に、同じ窯で焼かれたのか?どのくらいの数の井戸茶碗を1回の窯で焼いたのか?全体として、どれくらい焼

かれたのか?



「喜左衛門」 朝鮮・李朝時代(16世紀)大井戸茶碗・喜左衛門(きざえもん)(国宝)

京都・孤蓬(こほう)庵 口径 15.4~cm

   高麗茶碗の良さというか,味わいというものは井戸茶碗に尽きるといわれています。 茶

人たちが高麗茶碗に求めた美しさは,井戸茶碗のような作振りのもの, 即ち飾り気のない

素朴な姿,渋い、雅味のある釉色,そして一つの姿 として茶碗を観るとき,毅然とした立ち

居振るまい、茫洋とした大きさと,捉えどころのない風格、品格が感じられる茶碗 ということ

になります。 それは正に大井戸茶碗の姿であり,「喜左衛門」はその象徴といえます。


 伸び伸びとしたこだわりのない、広がりのある姿,小さめの竹の節高台から広がり、伸び

ている姿、形が印象的ですが,その伸び伸びとしたロクロ目は腰の部分に柔らかくついてい

ます。井戸茶碗の最大の特色であり,全体には灰釉が薄く掛かり、竹節状に削り出された

高台廻りは梅華皮(かいらぎ)状に縮れています。全体の渋く静かな色感の中に,唯一つの

激 しい景色であるといえ,茶人はそうした変化を喜んだのでしょう。

「細川」

 定説のように、無名の、美意識をもたない陶工が作っていたとして、そのような陶工が作る場合は、それも

日用雑器を作っていたとするなら、同じものを繰り返し何百何千と作るでしょう。そうならどうして双子の茶碗(

同じ陶工がそのときに作り、そのときに焼いた茶碗)が伝来していないのか?何百何千と壊れて一個だけ残

ったのか?それもそれぞれの井戸茶碗において・・

 いろんな雰囲気の物を作るのは美意識旺盛な現代の作家の得意とするところですから。先ほどの例でいえ

ば、喜左衛門井戸と細川井戸を同じ陶工が作っていたなら、まさしく当時の美意識旺盛な作家というべきでし

ょう。

 伝来品を見ると、当時一個一個違う物を作っていたようにも思えます。例えばこのような想像も出来ます。

日用雑器と認識するとして、何百、何千作ったとしても陶工の意のままに好きな形を作らせたのかもしれませ

ん。しかし何千も作られたのかなー?それにしても韓国に伝来している物は一つもないらしいし、天目茶碗の

立派な茶碗は日本にだけ伝来しているが、その系列の天目茶碗はいくらも中国に伝来しています。井戸茶碗

の系列らしき物は何一つ韓国に伝来していない。民衆の日用雑器ならどこかに少しは残っていそうなのに気

配がないということです。



定説を思う

 先ほどから、日用雑器と云っていますが実は祭器ではなかったのか?という説もあります。形から来るイメ

ージだと思いますが、筒井筒などの高台の高い形は何となく想像させます。しかし祭器なら、もう少し同じもの

がなければ・・と思います。格の高いものになりますし、どの様な形でも良いというわけにまいりません。毅然

と主張する形であったと思います。それに朝鮮に伝来品が全くないと云うことが、祭器であれば特におかしな

事になります。民族的に重要な器物ですから必ず、伝来していくのが当然だろうし。日用雑器の場合でも伝

来していないとおかしいのですが、定説のように日用雑器というのがまだしも自然だろうと思います。


 朝鮮に伝来していないのは、日本からの注文で作られてすぐに日本に運ばれたのだとの説もありますが、

御本茶碗、御所丸茶碗等々確かに注文の茶碗はありますが、その事は高麗茶碗がつくられた時代の最後

の時期でした。井戸茶碗が作られたのは、高麗時代に遡れるほどに古い時代で、注文製作など考えられな

いでしょう。まだ茶人は唐物を良としていた時代ですから。


 それにしても、井戸茶碗は朝鮮で作られた高麗茶碗ということは、誰も疑いようがないのですが、現代の韓

国の食器事情を見ますと、金属が多いし、石の器物が多いようです。陶磁器の
場合でも井戸茶碗のような雰

囲気のものは皆無です。井戸茶碗がかっての日用雑器とするなら

あまりにかけ離れていると言うより断絶を感じます。それらしいものが遺っていて良さそうに思うのですが。思

えば、思うほど、本当に朝鮮で作られたのか疑問が大きくなります。



和の香り

 また井戸茶碗を思えば思うほどに、和の香りが匂い立ちます。朝鮮物と言われる物に三島、粉引がありま

すが、この白化粧物には確かに朝鮮の香りがします。白は朝鮮の色だと納得できます。清楚で、自立的で緊

張感がみなぎっています。高麗時代の高麗青磁から粉青沙器に至る歴史があります。


 伊羅保、御本、金海等も朝鮮の香りがします。(もちろん独断ですが・・)色合い、肌合い、作り、雰囲気等々

、井戸茶碗には日本の美意識によって作られた物としか思えないような和の香りが匂い立ちます。

それは、唐津、とか萩の茶碗が最も雰囲気が近いことで分かります。

唐津も萩も朝鮮の陶工が連れてこられて、窯場を拓いたのだから朝鮮の焼き物といえなくもありませんが、

日本の風土の中で感化され、お茶の文化の要請で和の香りのする唐津、萩へと変化していったのでしょう。


 また、現代の韓国の陶工が作る井戸茶碗には確かに朝鮮の香りがします。あまりに本歌と違和感のあるも

のです。日本の現代の作り手の井戸茶碗の方が、よほど本歌に近い雰囲気があり、当然和の香りがします

この事実をとっても、井戸茶碗の朝鮮産という定説が不安になってきます。


 ある説に、萩焼の創始者の高麗左衛門の兄である李勺光(深川焼の祖)の動向についてのものがあります

文禄・慶長の役の際、毛利元就に従って来日した李勺光一族の動向が何年間か歴史的に不明である。その

何年間の間に、広島の山間あたりで窯を作り井戸茶碗を作ったのではないか。

古萩茶碗には井戸茶碗とほとんど同じ焼き肌の、同じ色のものがあります。

確かに一〇年もあれば、土を求め、窯を築き、井戸茶碗を二千や三千碗作ることは十分可能に思えます。

 また、奥高麗茶碗が焼かれた頃に、唐津のどこかで焼かれたのではないか、との説もあります。

 しかし井戸茶碗は日本で作られた物だと言い切る確証を私は持っていません。唐津前期の「奥高麗茶碗」

の焼き肌が、又は古萩の一部が最も井戸茶碗の焼きに近いものだと思えますが・・

最近の学術調査で、相当具体的に絞り込んだ窯跡を韓国で発掘したと報告されています。井戸茶碗の破片

が四,五個見つかったそうです。私は、その破片の写真を見たくて堪りませんが、どうして公開されないのか

不思議です。それに、そうであれば大変なビッグニュースですが、そのようなニュースを聞いた覚えもありま

せん・・


 後日に分ったことですが、2000年3月、鎮海市の金谷山で山口大学農学部の宇都宮宏氏が数個の井戸

茶碗高台部分を採取され、鎮海市に発掘調査を依頼されました。

2001年4月から韓国慶尚南道発展研究院歴史文化センターが調査を開始、

同9月、その発掘調査により、鎮海市熊東面頭洞里が、大井戸茶碗の産地であることが判明したそうです。

知らなかったとはいえ、大変勉強不足でした。
 

二〇一一年現在、熊川古窯址資料館を建設中です。



筒井筒」

  重要文化財 昭和二五年八月二九日指定銘 朝鮮李朝前期  金沢市 個人蔵

口径一四、五cm 高台径四、七cm 高さ七,九cm

 「喜左衛門井戸」(国宝)とともに並び称される井戸の名碗として茶道界で広く知られている。雄大でさびの

ある趣は、よく井戸茶碗としてのよさをあらわしてい ます。

 「筒井筒」の銘は、もと筒井順慶がもっていて、茶碗が深めであり、高台が高いところから「筒井の筒茶碗」

といわれ、この名前が生まれたと伝えられている。のち順慶から秀吉に贈られて秘蔵されていたが、ある日、

近侍の小姓が誤って取り落とし、五つに割ってしまった。激怒した秀吉が小姓を手打にしようとしたところ、た

またま居合わせた細川幽斎が、「筒井筒五つにわれし井戸茶碗とがをばわれに負ひしけらしな」と詠んだの

で、秀吉の不興がとけたという逸話が残ってい ます。

 井戸茶碗は朝鮮李朝時代前期末頃に焼かれた陶器で、もとは飯茶碗としての雑器であったが桃山時代に

我が国に舶載され、茶人が茶器としてとりあげ、とくに姿の大きい大井戸は、佗茶の最高のものとされ、朝顔

形でロクロ目が強く、高台が竹の節状で、カイラギがあることが条件とされています。

昭和六〇年「石川県の文化財」より


「筒井筒」は、裏千家の茶道会館で見ることがありました。

かなり大きな印象を受けた記憶があります。そしてこの写真よりも青い色合いの印象がありました。

還元が少しかかっているのだと思いました。

薬は、薄く、よく融けていました。貫入は細かく調子の良さを感じました。

見込みが深くて、段差がはっきりでていました。風格、品格、申し分のない存在感でした。確かに、喜左衛門

井戸と並び賞せられる井戸茶碗だと、感動しきりでした。


いま、あらためて思い出しているのですが、それは、妖しいまでの妖艶さで迫ってきます。

その色合いは、微妙に青く、透明感があり、鬼気迫るものでした。

その大きさは、並はずれていて近寄りがたく毅然と立ち、弁慶の往生を想像させるに充分の存在感でした。

吸い込まれそうになった記憶がよみがえります。


このような茶碗がどうして生まれたのか、どこで、どの様な人たちが作っていたのか、あらためて不思議に思

います。

 また、茶会に使っていた当時の人たちの思いは如何ほどであったのか、驚き、感動したのか、太閤殿下の

愛用の茶碗であれば、さぞかし仰々しく、たいそうに扱われたことだと想像できます。


 当時の武士社会で、手柄をたてた恩賞にこうした茶道具が使われたのも納得できるというものです。思え

ば領地に代わる大変な価値あるものだったのでしょう。



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